2024/06/01 2024/06/08
【ID 22 近藤 央】ドーナツの穴と、3回目の引退をする僕
ドーナツの中心って、一体何者なんだ?
7/29(金)22時、千代乃湯にて。
サウナと水風呂を一通り終え、外のベンチで落ち着く。
俺ってドーナツが好きだよな、と何の脈絡も無くふと思う。
バイト中にトップバリュの安いドーナツを見境なく頬張るし。
でもしかし、ドーナツの中心にある穴、あれは何なんだ?
あれ意味あるんか?
…もしかして今まで自分はドーナツの味や見た目、
つまりメインの部分に目が行き過ぎだったのではないか?
そもそもあの穴はどうやって理解すればいいのだろうか?
そこは空白だから、ドーナツでは無いのか?
「ドーナツの」穴なので、「穴」という存在が在るのか?
うーん、でもこんな問題を考えたところでドーナツの味が変わるわけではないな。
まあいいや、ドーナツ最高!
中心に穴があるドーナツも、中心に最後までチョコたっぷりのトッポも、どっちも美味しいし!
おっと。
この時、俺は『ドーナツの中心』という場所に目を向けてみてふと思った。
『大学サッカーでの中心、すなわちサッカーをしている理由って一体何なんだ?』
それはドーナツの中心のように、在るのか無いのかわからないようなものなのか?
それはトッポの中心のように、ぎっしりと、理由と意志という名のチョコで詰まっているのか?
…奇しくもドーナツが僕の大学サッカーに対しての想いを考えるきっかけになったようです。
すっかり前置きが長くなりました。本題はここからです。
さて、その答えは「『楽しいから』に他ならないから」のような気がします。
以前の引退ブログでは「他者という存在が自分を成長させてくれた、それに気づけたのが一番の収穫だった」のようなことを書きました(ICUFCの性質上、僕は今年で3回目の引退です)。
でも、何か釈然としないのです。
確かに他者の認識は超大事。
人間社会では他人との関わりが避けられないことは自明です。
でも忌憚なく言うと、人間関係に疲れてしまうことは多いと思います。アドラーも「全ての悩みは人間関係の悩みである」と言っていますし、実際、僕もICUFCでそう思うことがありました。
では、あえて週5でサッカーしてまで、ましてや様々な価値観を持つ人間が多いICUFCという組織で「面倒臭い」人間関係を続けてまで、なぜ躍起になってグラウンドに向かうのか。
誰に何を言われようと、凡下な理由かもしれないけども、
それは『サッカーが楽しいから』と僕は声高に叫び続けます。
でもサッカーが楽しいのなんて割と当たり前じゃん?
とお思いのあなた。僕も今同じことを考えていました。
ということで、ここで何がサッカーを楽しいモノたらしめているのかを考えてみようと思います。
(非常に勝手な分類で申し訳ありませんが、)チームスポーツで得られる楽しさには
① 個人が感じる楽しさ
② 集団で感じる楽しさ
の2種類があるのかなと思います。
①の個人的な楽しさはイメージしやすいかもしれませんが、まあゴールを決めたり、出来ないプレーが出来るようになったり、監督に褒められたりする瞬間に個人が体内で感じることでしょう。
②の集団的な楽しさは少し難易度が上がりますが、試合に勝ち、皆でそれを分かち合ったり、連携から素晴らしいゴールが生まれた瞬間に集団で共有される熱みたいなものでしょう。
加えて、①と②の間にはスパイラルが存在すると僕は考えます。
例えば、僕が試合でゴールを決めたとしましょう。
言わずもがな、僕の体内で①個人的な楽しさが湧き上がります。
と同時に、(恐らくほぼ)全てのチームメンバーの中に②集団的な楽しさが湧き上がります。
結果、チームで見た際の楽しさの総量は爆上がりします。
この良好なスパイラルがよくある『得点後に生まれるイケイケの流れ』の正体でしょう。
これはサッカーという活動全てに通底する考え方だと思います。
マネージャーが走り回り円滑な試合運営をしてくれた時、プレイヤーが素晴らしいスライディングでボール奪取した時。そこにはポジティブなスパイラルが必ず生まれます。
この「チームに貢献したい」という個人的で原始的な感情、
そして何より大切なのが「それに気づき、チームに波及させる力」です。
そこかしこで生まれる「チームに貢献したい欲」を、誰かが見つけて拾い、チーム全体に波及させていく。
これが高いレベルで達成される時、言い換えれば①と②がピッタリとくっついている時、サッカーで感じる楽しさが最大に近づくと思います。
先程書いた『人間関係の面倒臭さ』は、『楽しさ』と表裏一体だったんですね。
結論、「他者(チーム)のためになるエゴ」と「気づき・波及の能力」。
これが僕が現時点で考える最強の『サッカーを楽しむための原則』です。
…久々に考え事をして疲れました。
でもまだ、僕の心にモヤモヤが残ります。
「ではなぜ、僕たちは(サッカーに限らず)楽しさを求めるのだろうか?」
「何かに熱中することはそんなに重要なことなんだろうか?」
…ということで、あと少し『熱中』について考えてみたいと思います。お付き合いください。
僕は『熱中すること』は自分を肯定し、少しでも幸せになるための方法だと考えます。
僕たちって自分の意志で決断し行動していると思いがちですが、実はそんなことはないと思うんです。
どんな意思決定の場でも何らかの要因が絡んでいて、100%自分の自由意志で決断できることってそうそう無いのかもしれません。
例えば僕が、今日はサウナに行きたい!行くんだ!!と意志を持っても、それは体が疲れているからであり、誰かが発したサウナという言葉を聞いたからでもあり、そもそも他人の影響でサウナが好きになったからかもしれません。
この考えはある種の諦めに近いです。
では僕たちは、何らかの複雑で抵抗不可能な経路を経て今いる状況/環境に転がり込んできたはずですが、そこで何より大事になるのが『熱中すること』だと考えています。
しかしこれは「置かれた場所で咲きなさい」という言葉がしばしば揶揄されるように、『理不尽な状況でも頑張って熱中しなければならない』などと言いたいわけではありません。
一度熱中してみることを通して、自分の意志(のようなもの)で環境を楽しむ糸口を掴んでいけたら良いんじゃないのかな、と思っているだけです。
たまたま僕は「サッカーをプレイすること」に一つの(個人的な)楽しさを見つけましたが、他にも「選手をサポートすること」「SNSを動かしてチームの価値を上げること」「スポンサー獲得に動いてみること」などなど、楽しさを感じられる項目は無限大です。
幸いにもそこには「部活以外の他のことに楽しさを見出す」という一見ネガティブに見える選択肢も備わっています。
先程、「自由意志なんてものはない」と書きましたが、物事に「熱中すること」でその理由や意志を少しでも自分のものに、自分の方に引き寄せることができるのではないかと思います。
どうせなら何事もなるべく自発的に、熱狂的に楽しみたいですしね。
…長くなりましたが、総じて何が言いたいかというと、
自分というドーナツに空いた穴、もしくは自分というトッポに詰まったチョコの成分−つまり『目的』や『理由』という事項を−、これを再点検してみることが大事なんじゃないかな、ということです。
それは、まずは自分が生活に楽しさを見つけるために。
ゆくゆくは、他人と一緒に楽しさのスパイラルを生み出すために。
何やら偉そうなことを言っているかもしれませんが、今でも僕の頭の中では『サッカー楽しい!!やば!!』という馬鹿みたいな文句が光り輝いています。
この先も何か熱中できるものが見つかればいいな。見つけていこう。
このブログをここまで読んで下さった皆さまも、ドーナツを見た際には是非、そこに空いているはずの中心に目を向けてみると何か思わぬ発見があるかもしれません。
長々と拙文を読んでいただきありがとうございました。