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国際基督教大学サッカー部(ICU FC)公式サイト

OB・OG

2024/09/25 2024/09/26

「素晴らしい人に出会うために、悩み、自分を高めていこう」 富士ゼロックス元社長・有馬利男 氏

ICUFCは、多くのOBOGの皆様に支えられています。その1人、草創期のICUFCの中心になっておられたのが、有馬利男さん。有馬さんは卒業後、富士ゼロックスに入社され、代表取締役社長を務められました。現在は、グローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパン代表理事として、国連と民間が協力して持続可能な成長を実現するための活動に携わられています。有馬さんに、ICUFCでの思い出、サッカーをやっていて良かったこと、そして私たち若い世代に向けての励ましなどを語っていただきました。

(聞き手・芦澤 柊人、谷手 翔宇、篠塚育見、佐々木 一真、金堂 新大。インタビューは、2024年6月4日に行った)

今の本館の裏に建物がたくさん建っているけれど当時はあの辺に荒れ地があって、周りは ぼうぼうの中みんなで集まって練習をしていました。ただ練習は週1、2度で、7、8人集まればいいっていう状況だった。同好会ですよね。

小学生のとき、ドッジボールからサッカーへ

ー唐突なんですけども、まだサッカーをされていますか?
45歳ぐらいまではボールを蹴ってたけど、アキレス腱切っちゃってね、それでやめました。もう1回やったら馬鹿だって言われて(笑)。でも今もサッカー観戦はしていますよ。

 

ーなぜ有馬さんはICUのサッカー部に入ろうと思われたのですか?

小学校の頃にスポーツ万能の先生がいて、ドッジボールばかりやっていた我々に、ある日ボールを蹴ることを教えてくれたのがきっかけでした。鹿児島の市立中学2年生のときにサッカー部に入りました。当時のサッカー部っていうのは、不良少年の更生の場にもなっていたから、1年生の間は怖くて様子を見てました(笑)。実際に入ったらみんないい人だったね。中学校から受験してラサール高校に入学したんだけど、上級生の代は九州大会とか出たりして、そこそこ強かった。中学でも高校でもキャプテンやって、それから大学に入ったという流れですが、私の代はいつもあまり強くなかった。

 

ーなるほど、小学校からサッカーをなさっていて、その流れで大学でもサッカーをしようと思われたのですね。

中学校ではサッカーをやっていたなどとは言えないかもしれないね。今だと、リフティングなど、足元がみんな上手だったりするけれど、当時は、練習場が開くまで、半分以上の時間走っていたし、あとは、ボールを蹴っ飛ばして走ってシュートするみたいなサッカーだったね(笑)。「百姓一揆」だよね。それで足腰が鍛えられたし、キックを正確に強く蹴る訓練は出来たと思う。

 

ICUFCを引っ張ってくれた杉本進さんの存在

ー有馬さんが大学に入られた当時のICUFCの様子や雰囲気はどんな感じでしたか?

当時は運動部ではなくで、同好会だった。私がお話したいのが杉本進さんのことです。2年先輩でね、その人が本当にずっとサッカー部を引っ張ってくれたんですよ。もうお亡くなりになられたんだけど、同じ第一男子寮だったので、練習だけでなく、選手を集めたり、一緒に色々とやりました。「コンパ」も楽しい思い出です。今は、本館の裏に建物がたくさん建っているけれど、当時はあの辺に荒れ地のグランドがあって、周りは草ぼうぼうの中、みんなで集まって練習をしていました。ただ練習は週2回程度で、7、8人集まればいいっていう状況だった。同好会ですよね。亜細亜大学など近くの大学にちょいちょい声をかけていました。試合となると、香港やインドネシアなどからの留学生が参加してくれるので結構強かった。試合の前に荒地の草むしりをするんだけど、やぶ蚊が多くて大変だった。

 

ー同好会が、どうして部になれたのでしょうか?

杉本さんが頑張ってくれて、1963年にサッカー同好会から運動部に昇格したんだよね。そのときの昇格の会議に僕も一緒に連れてってもらったんだけれど、運動部にならないと関東リーグに参加できなかったから、杉本さんは事前の根回しだけでなく、会議で何回も発言して頑張っていました。後で聞いたんだけど、8期で香港からの留学生のジョージ・ユアンさんも大学側に働きかけていたそうで、いろいろな努力が実を結んだんだと思います。関東リーグの加盟に、運動部に昇格してから2年ほどかかったような記憶があります。

 

チームメイトだった竹内弘高(ICU理事長)さん

ーICUの竹内弘高理事長は、サッカー部の後輩ですよね。

そうです。我々はタケと呼んでいました。竹内さんは9月入学だと思うけども、確か2年後輩になるかな?我々の中では、袁偉民(ユアン・ウェイミン・ジョージ)さんやチョイさんなどの香港出身や、タケやオザワ・ジョウジ、ウエッブ、などセント・ジョセフ出身がいましたが、彼らは上手でしたね。あとは私みたいにあちこちの高校から来たサッカー経験者ですね。私も、ずいぶん部員を集めました。サッカーをやったことのない人を含めて7、8名ほど集めたかな?

 

ー有馬さんが在籍していた頃の部員数はご記憶でどのぐらいまでいたのでしょうか?

たまに参加する部員も含めると17、18名ほどですかね。

 

ー学生時代はどこのポジションでやられていたのですか?

フォワードが多かったですね。タケから「点取虫」と言われていました(笑)。どういうわけか当時から10番が好きでね。ただ、昔のポジションは今とは少し違っていました。僕らのころは、攻撃は、センターフォワードの両脇に、インナーの10番と8番。外側にはウイング・フォーワードが2人、7番と11番。センターフォワードが前にいるからこの5人でWの字になる。それから守る方はサイドハーフとサイドバックが左右に2人ずついて真ん中にセンターバックがいるから、守備5人の陣形はMの字になるんだよね。だから当時はこのWとMの「WMフォーメーション」と言ってたと思う。

 

ー竹内さんのポジションは、どこだったんですか?

彼は、サイドハーフが多かったと記憶しています。一緒にプレーした時期もありました。竹内さんは、体もでかいし、足も長く(!!)、いい選手でした。潰し役みたいなこともやってくれましたが(笑)、よく前に走り込んで点を取っていたのを覚えています。

 

ー当時は、東京都リーグではなく、関東リーグだったんですね。

関東リーグの一番下、8部からのスタートだったと思います。その頃は、下級生の時代になっていましたが、毎年のように優勝して入れ替え戦に勝って昇格し、5部への入れ替え戦くらいまではいったのかな。その頃、関東リーグが編成替えになって、関東一円が参加するリーグ戦から東京都や、いくつかの地域リーグに分割されたんです。これはその頃のことですが、我々が関東リーグに加盟した頃、三多摩リーグを編成しました。関東リーグは秋の開催だったので、秋だけだと物足りない、春にも試合をしようと考えた杉本さんと僕は、周りの大学に声をかけました。最終的に自由学園、学芸大、アジア大、ICUなど6、7校でリーグを作った。僕が言い出しっぺだったんで、準備委員会の委員長だった。審判の講習会や、試合会場の確保やグラウンドの設営、審判や記録担当の確保、などやることがたくさんあったが、参加各校がよく協力してくれてありがたかった。優勝カップは日本サッカー協会が出してくれたんだけど、朝鮮大が優勝するならカップは出せないと言われたのには困ってしまった。朝鮮大は、当時釜本のいた早稲田の2軍と互角と言われる優勝候補だったが、結局朝鮮大は非公式参加になって決着した残念な思い出もあります。自由学園はいいチームでした。彼らは小学校から持ち上がってきて、長年一緒にやってきているので、息のあった素晴らしいプレーをしていたことが記憶に残っています。

 

ゼロックス・スーパーカップを主催

ーサッカーをやってこられて、印象に残っていることはありますか?

富士ゼロックスに入社しましたが、そこで、ゼロックス・スーパーサッカー(FUJIFILM SUPER CUP) という我々の会社が特別協賛する大会を主催したことと、高校サッカーの後援をしたことかな。高校サッカーは、今5、6社で後援しているけども、最初の頃は我々1社だけの時もあったと思う。毎年国立競技場に見に行ったけど、後に日本代表になった名選手の高校時代のプレーを見ることができたのは、とても嬉しい思い出です。会社では、僕がサッカーを好きなことを周りは知っていたから相談を受けたり、サッカーを通じていろいろな場に参加する機会が得られました。それから、友人関係が増えたり多くの繋がりができたっていうのもありますね。

 

ーゼロックス・スーパーカップは有名ですね。有馬さんが社長にまでなられたり幹部でいらっしゃった時期が結構長いと思うんですけれど、有馬さんがサッカーが好きであることと、富士ゼロックスがいろいろサッカーの後援をしたり大会を主催していることが関係しているわけですか。

そんな影響力はないです(笑)。でも他のサッカーを応援している企業のトップと楽しい対話ができたりして、私も「絶対サッカーを応援すべきだ!」っていう気持ちで関わっていました。応援団の1人です。

 

サッカーはバラエティーに富んだグローバルに楽しめるゲーム

ー今までサッカーとたくさん関わってきたと思うんですけども、サッカーの魅力は何だと思いますか。

サッカーには、いろんな関わり方ができるっていうのは、あるでしょうね。体が小さくても、体力があってバトルで勝っていく人もいれば、技術とアイディアで相手をうまくかわしてゆく人もいる。そういういろいろな個人の関わり方があるっていうのはすごく魅力がありますよね。チームのスタイルも画一的じゃない。ブラジル流のサッカーもあるし、フランスやイギリス流のスタイルもある。そういうのも、見ていて面白いですよね。でも、何でもありではなくて一個のボールを追っかけて、それで勝負がついちゃうんですよね。レッドカードなどのきちんとした規律もある。そういう意味でバラエティーに富んだグローバルに楽しめるゲームだと思いますね。

 

ー富士ゼロックスの社長もされたわけですが、昔からキャプテンをされたりとか、フォワードとしての経験が影響していると思われますか?

どうだろうね、私は確かに運動も仕事も攻める方が好きですね。三多摩リーグの時もそうだったけれど、やっぱり人に声かけて「一緒にやろうよ」とコラボレーションする、一緒に何かをみんなで作っていくのは好きですね。

ICUFC現役部員=篠塚育見撮影

直接的には富士ゼロックスっていう会社でゼロックス・スーパーサッカー
(FUJIFILM SUPER CUP) を主催したことと高校サッカーの講演をしたことかな。自分の会社で、高校サッカーに関われたことは非常に誇らしかったし嬉しかったね。

適当にごまかしたりしないで、本気で考え抜くことは大事

ーサッカーとは離れますが、ICUという大学の魅力や、学生や卒業生に期待されていることはありますか?

ICU卒の人ってもちろんたくさんいるので画一的には言えないんだけど、こうやっていろいろお付き合いをしてるとやっぱりICUはいいなって感じることは多いですよね。それがICUのリベラルアーツ教育によるものかどうかは、本人としてはそんなに意識してるわけではないかも知れないけど、ICU生はやっぱり物事を「なぜだろう」と、本質を考えて、見極めていく基本的な思考をする人が多いですよね。そういう態度を、育んでいく環境がICUにはあると僕は感じています。

僕は、ICU4年生の頃、「会社で仕事する意味」がわかんなくてね、一年留年した経験があるんです。幸い、5年生の時に富士ゼロックスという会社の素晴らしい理念に出会って入社した。留年するのがいいとは言わないけれども、やっぱり自分事として本気で正面から考える、そういう精神的な構造を育んでくれる環境があるのが、僕がICUを気に入ってるところですね。サッカーばかりじゃないんだって(笑)。

 

ーだれもが有馬さんのように社会で活躍できるわけではないと思いますが、そうなるためには、何から始めたらいいですか?

まぁ僕みたいにならないほうがいいんだけどね(笑)。でも、やっぱり、適当にごまかしたりしないで、本気で考え抜くことは大事だと思います。
僕の場合は、悩んだ末に、素晴らしい企業とその理念に出会い、そこで素晴らしいリーダーに出会った。それによって、自分のキャリアパスが開いていったと思うし、社長退任後の今やっていることも、その延長上にあると思える。やっぱり、人生の中で、素晴らしい出会いがあるといいよね。そこには、努力と運が必要。素晴らしい出会いを活かさなければいけないと思う。

 

ー2016年にICUFCのOBOG会が設立され、OBOGの皆様と現役との繋がりが少しずつ深まっていると思いますが、現役のICUFCに何か期待していることなどありますか。

僕は今も、テレビ観戦だけでなく、時々サッカーを観にゆくこともあります。幾つになってもサッカーが好きで、サッカーを楽しめるといいですね。去年(2023年)の秋、現役の公式戦を見に行って、すごいプレーをしているなと思いました。やっぱり(東京・神奈川)2部ともなるとなかなか厳しい、正直言って我々の時代とは全く違うなと、感心したけども、是非チーム力を更に上げていって欲しいと思います。

 

ー初代会長の太田さんによれば、2016年に今のOBOG会ができる前にも、何度か設立の機運があっては潰れたり、ちょっとやったけど、なくなったりみたいなことはあったのですか?

確かに、そういう動きはありました。過去何回か動き始めたOB会も、あまり長くは続かなかった。今回は、さきほどお話した杉本さんが、ある日私の事務所にこられてね、「我々が生きている間に、これをやんなきゃ駄目だ」と、僕も「是非やりましょう」と応じたのですが、太田さんをはじめとする、後輩OBOGの皆さんが協力し合って、推し進めたことが大きいと思います。現役の皆さんには、卒業した後には、ぜひ、若手OBOGとして、会を牽引してもらいたいと思います。

 

ーそうなんですね。現役の私たちにとって、OBOG会は、本当にありがたい存在です。クラブのスポンサーが撤退したときにも、OBOG会の方々から多額の寄付をいただくなど、助けていただきました。今日は貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

有馬利男氏とICUFC現役部員一同

有馬利男
1942年生まれ。1962年に国際基督教大学に入学し、サッカー部(当初は同好会)に入部。卒業後、富士ゼロックス(株)に入社。2002年〜2007年まで同社代表取締役社長。2007年より国連グローバル・コンパクト・ボードメンバーに就任。2008年から日本組織の代表理事。このほか数社の社外取締役を歴任。緊急人道支援のNGOであるJPFの共同代表も務めた。